アートとそうでないものを別けるものとは

世にはデジタルで素晴らしい作品を制作している人が山のようにいて、今後も増える一方だけども、あいかわらず世の人がアートと認識するものは画廊に掛けてあるもので、しかしそのクオリティには差がなく、ではどこでアートと認識するのか問題が先日お茶の間の議題になった。

答えはズバリ、画材、および素材。
平面だと、アナログ画材で描かれていて、額に入っていればアート。立体なら(おおむね)ナチュラル素材で作られて、ギャラリーや美術館にあればアート。

同じものがコンビニプリントで出力されたり、3Dプリンタで出力されていても、人はアートだと認識出来ない。なぜなら、作品そのものをジャッジする能力を持っておらず、ゆえに価値を決定することも出来ない。だから、下記のような体裁を持つものに価値があると判断し、アートと認めるわけです。

……くだらないよね。でもそういうもんです。
同じ絵をカンバスにリキテックスで描いてみれば、何倍もの値段がつく。デジタルのままなら、値段はつきにくい。通常だと作品に値段がつく担保がないから。

僕はほぼほぼファインアートの世界の出身だけども、結局だれかに価値を保証してもらわなければ、たいがいの人は芸術を芸術として認めてあげることが出来ない。クソだと思ってももうしょうがないんですわ。だが誰かに認められないものはゴミと捨てるアート側もかなりたいがいだと思ってる。ちげえだろ。

 

人の数だけアートは存在していて、それぞれが自分のアートを愛でればよいのだけど、結局今はミュシャ展や阿修羅像のごとく、消費するだけの存在になってんのよね。僕もミュシャ展、青山の方も含めて行ったけど、有閑マダムだらけでもう辟易して帰ってきた。

世はこれだけアートに溢れているのに、何故愛でる人がいないのだろうか。そして自称アートなキチガイ連中が幅をきかせているのだろう。ちょっとおかしなことすればアートだと思うなよ。どこが美しいんだよそれ。それにどっかで見たことあるようなのばっかだぞ。

ぶっちゃけ、人間がわざわざ作らずとも、地球には美しいものがたくさんあるわけで、たとえば鉱石だとか、魚や花、空の雲など、愛でるものはいくらでもある。まあ美しくなくてもアートはあるので美しさが必ずしもアートの要件ではないにしてもだ。

アートを魂の発露だと言うのなら、それもまた然りだけど、では、そこにころがっている何かの模倣の残骸は一体どのへんの魂の発露なのだろうか。アートっぽいなにか、ではないのかと。

ファインアートの界隈って外から見ると、自家中毒を起し続けて末期症状に見える。

 

なんちゃっての方だとさ。
公園で小学生を丸焼きにしてみたりとかな。あったでしょ。
しかもあれとて、誰かのパクリだったと。
あれに別の作品で出品してた友人の妹さん、騒動のせいで台無しになってもうさんざんだった話も聞いてる。関わる大人がもうヒドイとしか言えない。

ミュシャ展行った人なら知ってると思うけど、土産コーナーのラインナップ、ほとんどアニメイトだぞ。絵がミュシャなだけで。マステだのクリアファイルだのポストカードだのエコバッグだの複製画等々、そんなお手軽に作れるようなもんばっかで、レジが大行列だった。青山行ったら同じの売ってたけど。

青山というのは、新美術館の会期の後、無料公開されていた個人コレクションの展覧会のこと。俺的にはこっちの方が濃厚で楽しめた。大きい方のミュシャ展とは別の図録も買えたしね。

投稿者プロフィール

東雲飛鶴
東雲飛鶴ブログ管理人
イラストレーター兼独立系作家。
セルパブレーベル「グリフォンBOOKS」主宰。
好きなもの  猫とニケとヒトデと寿司。
配偶者と猫と古い一軒家に暮らしています。
日本イラストレーター協会 会員番号160729

グリフォンBOOKSは、電子書籍、PODなど、様々な媒体での作品発表を目的としたセルフパブリッシングレーベルです。イラストレーター兼独立系作家の東雲飛鶴が運営しています。

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